三十歳の時、建築、造園、都市計画にたずさわっていた仲間四人が集まり、分野を越えて都市空間や環境づくりを目指そうと、LAU都市施設研究所を立ち上げた。今思えば、まことに向こう見ずな気構えであった、としみじみ思う。
わたしはもう五十七歳。事務所設立から二十七年、四半世紀という時が流れたことになる。社会は高度成長期からバブル、そしてバブル崩壊、さらに少子高齢化・左下がりの時代と大きく変わり、そのたびに事務所は社会の波に揺られてきた。
わたくし事でも、結婚、子どもの成長、そして独立…なんやかやと、息つく暇なくアップダウンを駈けてきたというのが実感だ。たぶん、造園や都市計画のコンサルタント、また建築設計事務所に籍を置いてきた同世代の多くの技術者の変わらぬ思いだろう。
なんでお前が、小説を?いったい、いつ書いているのだ?
『夏の椿』が出版されてから、知人友人によく訊ねられる。
じつは、学生時代、小説めいたものを書いていて、建築へ進むか、モノ書きになろうか、とかなり迷ったことがあった。が、ある人に「おまえさんには、才能がないよ。才能のあるやつには、文章の良し悪し以前に、作品に底光りする輝きがあるものだ。そういうやつは、宝石の原石みたいなもので、磨けば次第に光を増す。けどね、あんたの作品にはそれがない。まあ、せいぜい石炭みたいなものだな、おまえさんの才能は。磨けば少しは黒光りする。しかし、磨く端しから削れていき、しまいには黒い粉だけが残る。その程度の才能で、モノ書きの迷い道に分け入れば、まずはノタレ死にだ」と散々にこき下ろされた。それで、すっかり自信をなくし(ナサケないことに)、中退しかけていた大学に戻り、五年かけて建築学科を卒業した。以来、文芸には背を向けてきた。
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五十が見えてきたころ、バブル崩壊の波が押し寄せ、仕事が減った。
正月休暇もまともにとったことがなかったのが、初めてフルタイムで休むことができた。
自宅の大掃除が済むと、何もすることがない。そのころは報告書もワープロで打つようになっており、自宅にも仕事用のワープロがあった。そのワープロを眺めているうちに、昔、小説を書いたが一度も活字になったことがなかったなぁ、いまなら、すぐにプリンターが印字してくれるのに、と漫然と思った。そして、キーボードに誘われ、なに事かを書き始めていた。それが、きっかけといえばきっかけである。
小説を書くということは麻薬をやるようなものだ、と誰かが言っていたけれど、そうかも知れない(麻薬をやったことはないのだが)。ひとつ書くとまた一つと、歯止めがきかなくなってしまった。
バブル以後、仕事は減ったが、事務所をタイトにした分だけ、雑用も含め、日々やることは多い。けっして、暇ではない。仕事以外の余った時間はわずかである。残った時間の欠片を掻き集めるようにして小説を書くようになった。日々の生活から、多くのことを削ぎ落とした。付き合いも、酒を呑むことも、遊び事も減らし、小説のための時間を残すようにした。休日はもちろん、帰宅の電車、出張の帰りの列車、あるいは安眠できぬ明け方、時に応じて小説のメモをつくり、調べものをし、そして原稿を書いた。
家内が首を傾げ、「あなた、このごろ、へんよ。いつもパソコン向かって、なにをしているの」と訊ねるようになった。いい歳を食った男が、「小説を書いている」とは言いにくい。モゴモゴと訳のわからぬ応答をした。「遅く帰って来て、自宅でも仕事だなんて」とあきれ返った顔をした。
あるとき、書斎を掃除した家内が、プリントアウトされた用紙を見つけた。
仕事の原稿は通常横書きである。それが縦書きで、しかも「」付きの会話文まである。彼女はびっくりした。休日の夕食時に、その原稿をわたしに突きつけて、「これ、いったい、なにヨ」と真面目な顔で問い質してきた。
小説、と聞いて、彼女は唖然とした。
一緒に暮らすようになって、ずうっと彼女は、わたしのことを『仕事人間』とばかり思っていたのだ。それが、小説を書いているとは、よもや思いもしなかったのだろう。しばらく、不思議な生きものでも見るような表情をしていた。が、彼女は立ち直りも早い。ならば、読ませろと言った。彼女は小説や映画の類が好きで、わたしよりもずっとたくさんの小説を読んでいる。
テーブルに積まれた短編の束を見て驚いていたが、何日かして、面白い、とまじめな顔でわたしに言った。きちんとした小説になっている。このまま、積んでおくのはもったいない、とも言ってくれた。
同じころ、古い友人にも短編の幾つかを読んでもらっていた。その友人も同じようなことを言い、「新人賞に応募しろ。この手のものなら、文藝春秋のオール讀物が老舗だ。そこの小説新人賞がいい」と付け添えた。
その言葉に従い、短編を応募した。自分の書いているものが、どの程度ものか、というノリであった。応募したことも忘れてかけていた数ヶ月後、雑誌社から連絡があった。候補にノミネートされたという報せだった。驚いた。しかも、最終選考会では二作が残り、決選投票になった。だが、賞はとれなかった。
二年足らずして、今度は同じ雑誌の推理小説新人賞に応募した。これも最終候補に残り、こんどは新人賞を受賞した。その後、二度松本清張賞に応募し、いずれも候補作に残ったが、どちらもギリギリのところで賞はとれなかった。二度目の作品「天明、彦十店始末」は選考委員の推薦をうけ出版されることになった。それが「夏の椿」である。
この十年、そんなふうにして小説を書いてきた。そして、平成十七年十一月には、「蒼火(あおび)」が世に出た。ありがたいと思った。
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デビュー作の「夏の椿」と新作の「蒼火」 |
冒頭の年齢のことに戻るけれど、年が明ければ五十八歳。年齢を重ねたぶん、時や時間に対して体感といえるものを持つようになった。身体も頭も、あと二十年保てば、まずはよしとしなければならない。だから、ひどく時間が愛おしい。これは、若いころにはなかった感覚だ。若いころは、自分の持ち時間についてなにも考えなかった。時は無限、生はいつまでも続く、と漠然と思っていた。しかし、いまは切実に思う。時とは、これほどに限られたものなのかと。
日々仕事に追いかけられ、まとまった時間のとれないわたしにとって、五月の連休、夏休み、そして正月休みは、まさに時間のオアシスである。新しい小説の構想を練りたいと思う。ところが、ここ数年、息子たちが子づくりに励んだおかげで、どっと孫たちが押し寄せてくる。孫と付き合いつつ、いかに小説のための時間をつくるかが、今年のわたしの課題である。
| 渡辺重人 1948年 山形県酒田市に生まれる 1971年 千葉大学工学部建築学科卒 1978年 (株)LAU都市施設研究所設立、現在に至る 現:(株)LAU公共施設研究所 常務取締役 技術士(都市及び地方計画)、一級建築士 業務経歴:都市計画、景観計画、まちづくり等の業務に関わる もの書き歴:1999年「超高層に懸かる月と、骨と」でオール讀物推理小説新人賞受賞 2004年 第11回松本清張賞候補作「夏の椿」が文藝春秋から出版 2005年「蒼火(あおび)」が文藝春秋から出版 |